桂米朝(Katsura Beichou)
現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。
桂米朝の名語録・名言集
芸人はどんなにえらくなっても、つまりは遊民なのです、世の中の余裕おあまりで生きているものです。
好きなことをしていれば人は集まってくるもので、無理に友だちを作ることはない。
つらいことはあったが、やめようと思ったことは一度もなかった。簡単なしぐさでドラマのような世界に客を案内することができたときは、うれしい。
洒落を解し、洗練された笑いを喜ぶことは紳士のたしなみと言うか、文化人程度をはかるようなものであったことは洋の東西を問いません。
室町時代の産物である狂言でも、大名が秀句(言葉の洒落のこと)のたしなみがないことを悩んだり馬鹿にされたりしています。
言葉、風習がわからなくなっても、若い落語家がねらいを変えていけば、それはそれで残りますよ。心配はしてません。
この世界、20年演っても売れるとは限らない、もしかしたら21年目に売れるかも知れないし、一生売れないかも知れない。
ただ、嫌な人間にだけはなるな。
落語を聞きなはれ。落語には生きていく方法がたくさん隠されています。
落語ははっきり、物語の世界に遊ばせた観客を一瞬に現実に引き戻す、
そしてだました方が快哉を叫べば、だまされた方も「してやられたな、あっはっはっ」・・ということになる、言わば知的なお遊びです。
本当に大切な人との出会いは全ての過去をひっくり返す力を持っている。
ええか。やっぱり最後は人間やで。人柄や。どんな上手くなっても、どれだけ売れても、人間が大事やねん。
これは落語だけと違う。踊りやってる人も、音楽やってる人もみんな言うてる。人間性やて。そやさかい人間を磨いていかなあかんのや。
多種多様な職業、今はほろんだ商売や技術、商人の心意気や職人の智恵、古い職人の技術が決してバカにすべきものでないと、
わたしは子ども心にもあらためて、大工さんや屋さんの仕事を畏敬の念を持って見直した記憶があります。
人との応対や、折目切目の挨拶のしかた、さまざまな場合の人への対し方..落語は人生の百科事典であるとも言えましょ。
う。
大きなことは望まない。
泣いたり笑ったりしながら、一日一日が無事にすぎて、なんとか子や孫が育って、自分はとしよりになって、やがて死ぬんだ・・・
それでいいというような芸です。